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2018年04月02日

母との思い出(市川編)





早いもので管理人の母親が亡くなってから3年半が経過しました。
そこで今回は久しぶりに母との思い出について語ることにします。

以前にも当ブログで触れたことがありますが、管理人が小学生だった頃に母親の妹が京成市川真間駅近くにあった鉄筋建てのアパートに住んでいたことがあり、母とよく京成電車に乗って訪れたものです。

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ここには管理人と歳が近い従兄弟もいたため、毎度遊びに行くのがとても楽しみでした。
そのアパートの建物の1・2階部分では当時「西友市川店」が営業されており、何度か店内に入った記憶も残っています。
2009年頃にこの建物は取り壊されてしまい、その後野村不動産のマンション「プラウド」となりました。



このアパートから国道14号線へ向かう通りの途中右手に「元禄寿司」の店舗があり、その当時はまだ開店寿司というものがきわめてめずらしい時代だったこともあってよく利用しました。
さすがに現在はもうなくなっているものの、ちょっと調べてみたところ、1995年にその「元禄寿司市川店」の改装を行ったというページが残っているので、少なくとも1990年代までは営業されていたことがわかります。(リンク
また、あまり買物をした憶えはないものの、その通りが国道14号線に突き当ったところの正面に現在ある「オリンピック市川店」は、当時「松坂屋市川店」でした。



その後管理人が中学生だった頃に叔母家族は船橋市内へ転居したのですが、だからといって市川へ行く機会がまったくなくなるわけではありませんでした。
とくに1900年代から2000年に入ったあたりでは、オリンピックの隣接地にある山崎製パン関連施設「サンシティ」の2階で営業されているレストラン「マルシェ」がとてもお気に入りとなって、母を含めた家族でよく食事しに訪れたものです。



さらに市川真間駅前にかなり昔から現在もまだあり、屋上に塔が立っている建物としてとても印象深い東電関連ビルの2階にいつしかオープンした「ジョナサン」も一度だけ食事をしたことがあるなど、市川もまた昔から母とよく訪れた街としていろいろな思い出が尽きません。

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2017年03月27日

母との思い出(上野編)





管理人の母親がいなくなってから間もなく2年半になろうとしています。

そこで今回は久しぶりに母との思い出について語ってみたいと思います。

京成沿線に住んでいると、電車で都内へ買い物や食事しに行くとなると、都心側の終点であり繁華街でもある上野になる機会がどうしても多くなるものだと思いますが、幼少時代の管理人もその上野へはよく連れて行かれました。

おそらく母は高砂に住んでいたまだ学生時代だった頃から、やはり電車1本で行ける上野へ遊びに行くことが多かったのでしょう。

管理人がその上野へ連れて行かれた際の記憶でとくに強く印象に残っているのは、御徒町駅近くの松坂屋の向かいあたりにある飲食店によく入ったことです。

確か基本的にはあんみつなどの甘味処だったと思いますが、軽食も提供されており、その中でも母はおでんと茶飯のセットが大好きで、毎回のように注文して食べていました。

また、その飲食店は男子禁制で、女性しか入れない飲食店でしたが、小学生ぐらいまでの子供だったら男でもOKでした。

従って管理人もその当時は入れたわけですが、まだ幼かったながら女性ばかりしかいない店に入るのはいつも少し恥ずかしい気がしたものです。

店名は失念したものの、同じ御徒町にかつて「キリン」という甘味処があったと思いますが、その隣かあるいはすぐ近くにある店だったと記憶しています。

あとABABの並びにある「ナガフジ」というパーラーではパフェなどを食べさせてもらったことが何度かありました。

パーラーナガフジが入っていた現在のナガフジビル


比較的近年では西郷隆盛像がある上野の山の西郷会館に入っていた「聚楽台」、およびその反対側にあるかつて京成本社だったビルに入っていた「聚楽」というレストランで最後に食事をした際も母がいましたが、現在ではそれらすべてがないことを考えると、上野もずいぶん変わったものだとつくづく思う次第です。

かつての西郷会館も現在はUENO3153に


現在はヨドバシカメラとなっている旧京成本社ビル
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2016年08月08日

昭和58年8月8日の記憶





本日のちょうど33年前となる1983年(昭和58年)8月8日、管理人は当時親しかった友人とともに電車で都内へ行き、暑い中原宿や渋谷の街を歩き回りました。

記録には残っていないものの、渋谷では建て替えのため昨日8月7日の営業をもって閉鎖された「渋谷パルコ」にも行ったと思います。

また、昨日閉鎖されたのは渋谷パルコのPart1とPart3なのに対し、老朽化のため2007年末をもって休業となり、2011年頃に解体されたPart2の中に、当時管理人が強く憧れていたYMO高橋幸宏氏のブティック「BRICKS MONO(ブリックス モノ)」があったのですが、そこへ立ち寄ったのも間違いありません。

1階から地下1階へのエスカレーターを降りてすぐのところで営業されている細長くて小さなショップで、販売されている商品はどれも高価なため、まだ子供だった管理人はとても買い物をできるものではありませんでしたが、本当に好きだった幸宏氏とつながった気分になれる唯一の場所でもあっただけに、渋谷へ行く度に必ず寄ったことが思い出されます。

その後さらに渋谷から赤坂方面へ歩くことにして国道246号線を進み、その途中の青山付近にさしかかった際、流行に敏感だった友人が、今話題になっているショップなのでぜひというとこで、とある店に寄ったのですが、管理人としては正直なにやらわけのわからない感じがしました。

記録によれば「西友の店」ということだったらしいのですが・・・

しかしそれからだいぶ経ってネットの情報により判明したところによれば、それはなんとやがて全国規模で店舗を展開をすることになる、あの「無印良品」の1号店だったのです。

そんな店にこの当時から早くも注目していた友人は、凄い人物だったと今さらながら感心せざるを得ません。
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2015年09月21日

家庭教師の記憶1





管理人の両親は別に教育熱心ではなかったものの、当方自身が塾などにあまり通いたがらなかったため、中学から高校にかけて家庭教師に勉強を教わっていました。

それはすべてアルバイトの大学生で、代理も含めると6人程度の方にお世話になりましたが、その中でとくに印象に残っているのが、一番最初に教わった先生となっています。

それは某私立大学の男子学生で、長身でなおかつ結構イケてるモテそうなタイプの方でした。

しかも良心的で優しく、勉強以外の話も親身になってよく聞いてくれたほか、当時自転車が好きだった管理人につき合い、勉強が終わってからよく一緒にサイクリングに行ったりしたものです。

また、下宿先が中山法華経寺の近くにあるアパートだったのですが、そこへ呼んでもらいギターを弾いたりキャッチボールをしたりして遊んでくれたこともありました。

そればかりか、もっとすごいのは中2の夏休みに実家のある岡山県倉敷市に呼んでいただき、ひとりで倉敷まで行って先に帰省していたその先生と会い、実家に2泊ほどさせてもらったことです。

そして倉敷の街並み散策や倉敷紡績の工場見学などをさせてくれた記憶がありますが、きわめつきは2日目早朝のまだ暗いうちに起こされ、その先生のお父様のクルマに乗せられてどこに連れて行かれるのかと思ったら、とある港に到着してそのまま漁船での海釣り体験でした。

管理人が当時釣りが趣味のうちのひとつだったことを知っていた先生が、瀬戸内海での海釣りを体験させようと事前に知り合いの方の漁船をチャーターしてくれていたという、当方を喜ばせるためのサプライズだったのです!

竿を使わず、餌も不要の針と糸だけの仕掛けでしたが、不思議と魚が面白いぐらいバカバカ釣れて本当に楽しかったと同時に、瀬戸内海で釣りができたことは今でも忘れられないよき思い出になっているのは間違いありません。

ここまでしてくれる家庭教師の大学生というのはなかなかいないことでしょう。

現在ではその方もかなりいいお歳になられているものと思いますが、どこで何をされているのかが時々気になります。

ご本人がこの記事をご覧になればいいのですが・・・
posted by SS at 23:50| 千葉 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 過去の記憶 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年07月27日

母との思い出(津田沼編T)





管理人の母親が亡くなってから、早いもので間もなく10ヶ月となります。

1年前の今頃は寝たきりの状態ながらまだ家にいたわけですが、それがつい最近のことのように思える反面、ずいぶん前のことのような気もして、とても複雑な心境です。

今でも母のことが頭に浮かばない日はなく、思い出す度に寂しくなるような状態で、これはもう自分が生きている限りずっと続いて行くのではないかと思いますが、相変わらず忙しい日々を過ごしていることで、なんとか気が紛れているといったところでしょうか。。。

というわけで、今回は久しぶりに母との思い出について取り上げてみたいと思います。

昭和52年頃のことになりますが、母は新京成習志野駅近くにあった音楽教室へ夕方にピアノやエレクトーンを教えに行っており、その終了時間に合わせて管理人はよく電車で迎えに行っていました。

まだ新京成に冷房車がない時代で、そろそろ冷房付きの車両(8000形)が登場するという噂が出始めていた頃のことです。

そして、迎えに行った帰りに新津田沼で下車し、当時オープンして間もなかったヨーカドーに寄るのが毎度のパターンでした。

開業当初のヨーカドーは、現在の地下食品売場でレジのある部分が、当時はまだ他にあまりなかったフードコートになっており、いろんなジャンルのお店があって自分の好きなものが食べれたり、通常のレストランでは考えられないほど安いこともあって、少年時代の管理人はここで食事をするのが楽しくて仕方なかったものです。

イオンモールが開業してからは、その中に巨大なフードコートができた影響もあり、ヨーカドー地下のフードコートはどんどん縮小され、最近でこそ小さなスペースのセブンカフェがオープンしたものの消滅したも同然の状態となってしまいましたが、個人的には少年時代に母とよく利用したこのフードコートがあった頃の光景を今でも忘れてはおりません。

ちなみに母は同じヨーカドーの2階駐車場通路の出入口脇にあった喫茶店や、3階だか4階だかにあった森永系で確か「森」というような名称のレストランもお気に入りでよく利用していました。
posted by SS at 23:44| 千葉 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 過去の記憶 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年07月06日

チラシモデルの記憶





幼稚園だったか小学校低学年だったか忘れましたが、それぐらいの頃に母とまだ百貨店だった頃の「十字屋船橋店」に行き、1階で買い物をしていたところ、いきなり店員らしき人に「チラシのモデルになってほしい」とスカウトされたことがあります。

そのモデルというのは母ではなく管理人のことで、自分自身はあまり気がすすまなかったものの、母が当方の意思も聞かずに承諾してしまったため、やらざるを得ませんでした。

そしてさっそく裏の事務室のようなところへ連れて行かれ、そこにはすでにカメラマンが控えていて、多数の服に次々と着替えさせられたり、いろんなポーズをとらされたり・・・

後日、家に自分が写ったチラシが入ってきたときにはまだ幼かったながら、下着姿もあったりしてちょっと恥ずかしい思いがしたものです。

そのチラシ、もう長いこと見ていないものの、母がしばらく大事そうに保管していたので、探せば今でも家のどこかにあるかもしれません。

ところで、こういったスーパーとかのチラシモデルは、芸能人のスカウトではないので顔の可愛さはあまり重視されなさそうに思えますが、それでもある程度は考慮されるものなのでしょうか。

だとすれば店員さんも当方を見て直感的に可愛いと感じたからスカウトしたのかもしれませんが・・・

今ではすっかりオッサンの管理人ですが、確かに子供の頃の写真を見ると自分でも可愛いと思えたり。。。

ナルシスト発言でスイマセン(^_^;)
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2014年12月01日

母との思い出(高洲編)





管理人の母親が亡くなってからちょうど2ヶ月となります。

そこで今回は月命日ということで、前回の千葉編に続き、千葉市美浜区高洲周辺での母との思い出について記録しておきたいと思います。

管理人が小学生高学年だった頃、母は毎週土曜日に高洲団地内でエレクトーン教室を開いている一軒のお宅に講師として教えに行っていました。

そして土曜日の学校が終わり午後になると当方そこへ毎週のように迎えついでに遊びに行っていたことがかなり懐かしい思い出となっています。

父が仕事のないときは父とクルマで迎えに行っていましたが、父が行けないときは電車とバスを使ってでも行きました。

その当時高洲へは幕張駅で下りて、国道14号線の幕張5丁目交差点の手前にあったバスターミナルまで歩き、そこから出ていた千葉海浜交通のバスに乗って行ったものです。

当時はもちろん忠実屋やマリンピアといった大きな商業施設などまだない時代だったので、早く行きすぎたときは母の教室が終わるまで時間を潰すのが大変なこともありましたが・・・

余談ながら小6のときの女性担任の自宅が、ちょうど母が教えていたお宅のすぐ近くの団地という偶然があったことも思い出されます。

それから数年の時が流れ、マリンピアの開業後、みずからが先生でありながら演奏スキルを高めることを怠らなかった母は、マリンピア内の「島村楽器」の教室で先生をしていた氏家克典氏のもとへピアノを習いに行っていました。

しかしその当時はまだ京葉線がなかったうえ、管理人の自宅からだとやはり交通が不便なので、すでにクルマの免許を取得していた当方が毎回のように送り迎えをしていた記憶があります。

さらに母がその教室を辞めてからも、マリンピアやDマートにはよく一緒に買い物へ行ったものです。

そして、2013年10月に家族でマリンピアのレストラン街で食事をしたのですが、それが母とともに外食をした最後となってしまいました。

このように管理人にとっては高洲周辺も、母とのいろいろな思い出が数多い場所となっています。
posted by SS at 00:00| 千葉 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 過去の記憶 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年10月27日

母との思い出(千葉編)

管理人の母親が亡くなってから間もなく1ヶ月が過ぎようとしています。
亡くなる前後から葬儀あたりまでは時間が経つのが普段より遅く感じられたものですが、葬儀を終えてからはまた早く感じるようになり、今では母が生きていた頃がどんどん遠ざかってしまっていることが寂しくて仕方ありません。
まだまだ母のことを忘れられない日々が続いていることもあるだけに、今回もまた母に関する内容になってしまうことをご了承願います。
また、毎回ではありませんが、今後もしばらくは母との思い出について、個人的な備忘録という意味合いも兼ねて時々取り上げていきたいと思います。

まず今回は母と千葉に行った思い出からです。
管理人がまだ幼い頃から、母に手を引かれて千葉には本当によく行きました。
とくによく訪れたのが塚本ビル時代の千葉そごうや、お隣のニューナラヤ、さらに田畑百貨店や扇屋といったところです。
千葉そごうの地下に一時期とても美味しい餃子を提供している専門店があり、母はその餃子を食べたいがためによく訪れていました。
また、ニューナラヤの最上階にあった大食堂もよく利用していた記憶があります。
それから、これは以前にも述べたことがありますが、母がまだ幼なかった管理人を連れて駅から田畑百貨店までわざわざ歩いて買い物に行ったというのに、休みだったのでかなり憤慨していた憶えがあるのと同時に、その翌日未明に大火災が発生したので本当に驚いたものでした。
あとこれも以前に述べたことがあると思いますが、母がエレクトーンの講師になる頃に千葉ステーションビル内にあったヤマハの教室で度々レッスンを受け、自分もよく連れて行かれてその都度長時間待たされたものです。
それから母はわりと安価な服を頻繁に買う人だったので、千葉の田原屋もよく買い物をするお店のひとつでした。

比較的最近では、母がピアノの演奏を見るのも大好きだったことから、千葉そごうのコリドーモール地下や本館2階で開催されていたプロによる演奏をよく見せに連れて行ったものです。
さらにペリエ地下や千葉三越地下の飲食店街、それに千葉中央のミーオ内にある「ベルエポック」というレストランもお気に入りで一緒によく入りました。

このように千葉は昔から母とよく訪れた街としてかなり思い出深いものがありますが、駅ビルの取り壊しや田原屋の建て替えなど変わってしまったものも多く、母の死去も含めて長い時間が経過したことをしみじみと痛感させられる次第です。
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2012年05月18日

お菓子の回転台





管理人が子供の頃、デパ地下へ行くとどこでも必ずといっていいほど見かけた、たくさんの種類のお菓子がゆっくりと回っている円形の回転台ですが、今ではめっきり見かけなくなってしまいました。

ところが先日船橋西武の地下へ行ったところ、なんとその回転台を見かけたのです。当方の記憶の中にある回転台に比べるとぜんぜん小さくて質素な感じはしたものの、今でもそういった類のものがあるとは驚きました。

それを考えると、とくに地方の百貨店などでは意外に現存しているところがあるのかもしれません。
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2011年11月28日

木造校舎の思い出





近年では木のぬくもりや人への優しさなどから、学校において木造による校舎が見直され、あえて木造校舎を新築する例もあるようですけど、管理人が通っていた小学校は昔からの木造校舎が残っている学校でした。

とはいっても当方はそれほど昔の人間でも、田舎に住んでいるわけでもないものの、とにかくその当時市内すべての公立学校の中でも唯一の木造校舎で、しかも小学校卒業時でもまだなお残っていた記憶があります。もちろん新しい鉄筋校舎もあり、木造と鉄筋の校舎が共存している小学校でしたが・・・

その木造校舎は2階建てで、管理人は小学校1年生のときのクラスが1階、2年生のときは2階の、それぞれ木造校舎内の教室だったのですが、そのうち2年生のときに起きた掃除の時間の出来事です。小学生なのでどうしてもふざけたりしてバケツの水をひっくり返してしまうこともあるわけですが、そうすると古い木造の建物なだけに隙間から水が滴り落ちて、真下に位置する1階の教室の天井からポタポタと・・・(-_-;)

雑巾をしぼった汚水が天井から降ってくる・・・これほど不潔なことはありません。それで下の教室からクレームが来て、バケツをひっくり返した同級生が担任にこっぴどく叱られてたという(^^;

以上、鉄筋校舎ではまずあり得ない、木造校舎ならではの苦い思い出でした。。。
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2011年05月23日

津田沼駅の記憶





昔の国鉄津田沼駅は木造の駅舎で自由通路がなく、いちいち入場券を買わないと駅を跨げず、北口と南口が完全に分断されているような印象でした。もっとも、その当時は南口に千葉工業大学を除けば、商業などとくに主だった施設がなかったため、南北間の移動の需要もそれほど高くはなかったと思いますが、それが1972年(昭和47年)7月15日の国鉄総武線錦糸町〜津田沼駅間複々線化と快速電車の運行開始に伴い、津田沼駅も大改良工事が行われ現在とほぼ同じ姿になりました。ただし国鉄がJR化されてからの近年では改札内外に次々と飲食店や商業施設が誘致されるようになり、さらに本年3月20日(日)にはJR東日本が得意とするエキナカ施設「Dila津田沼」としてリニューアルオープンしています。(Dila津田沼公式

一方、駅舎がまだ古かった時代には北口の線路際に国鉄職員の詰所と思われる木造の建物がありましたが、これがある時通りかかってみたところ火災により丸焼け状態になっており、中にある布団なども焼け焦げているのが見えたりして驚愕させられた覚えがあります。その建物があった場所に近年になって4階建ての飲食テナント専門の駅ビルが建設され、1階がそば屋、2階が定食屋、3・4階がカフェとして営業されてきましたが、今年に入ってリニューアルが行われ、1・2階がグロッサリー&リカーの「KITANO ACE」へと変わり、駅ビルの名称も「ぺリエ津田沼」として今月12日(木)にオープンしました。(ペリエ津田沼公式

しかし個人的には以前はそば屋さんが駅の内外を含め3店舗もあったというのに、今ではエキナカのDila内に狭くていつも混んでて敬遠したくなるような「いろり庵きらく」1店舗だけになってしまったのはちょっと残念なところです。

iモード1974年(昭和49年)度の国鉄津田沼駅の様子(この空中写真は「国土画像情報(カラー空中写真) 国土交通省」を利用しており、クリックで拡大します!)
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iモード現在のJR津田沼駅
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2010年02月15日

思い出の建物が・・・(-_-;)





京成八幡駅前にある市川京成百貨店の生き残りでもある1階部分の「リブレ京成」が、ついに今月いっぱいで店じまいすることになりました。それにより全館が閉鎖され、時期は不明なもののそう遠くないうちに取り壊されてしまうものと思われます。

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管理人がまだ生まれる前の昭和38年9月に開業し、幼少時代からよく利用した百貨店でした。子供の頃にはまだリブレ京成になる前の食品売場で試食品を勝手につまみ食いして店員さんに怒られるという苦い記憶があったり、大人になってからは催事場で開催されていた京成の即売会で青電の廃車発生品を購入したことも思い出され、近年では2階の靴屋さんが売場の片隅でやってるめずらしい100円ショップや、3階の喫茶店「コーヒーキッド」などよく利用したものです。
そういったさまざまな思い出の詰まった商業施設なだけにとても名残惜しい気がするところですが、築年数を考えると何分にも老朽化が激しそうなだけにやむを得ないことでしょう。むしろ半世紀近くもの間大きな改良工事も行われないまま現存してきたことは立派といえ、もし京成に赤字時代がなかったらとっくの昔に改良工事なり建て替えなりが行われていたかもしれません。


大きな地図で見る

さらに同じ市川市内の京成沿線でもうひとつ、現在解体真っ最中の建物があります。京成市川真間駅近くの鉄筋建てのアパートです。

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ここにはかつて管理人の従兄弟が住んでおり、京成に乗って頻繁に訪れアパート内の通路や屋上でよく遊んだ思い出があったり、線路際ということで京成電車が走ってるのを見れたり走行音を聞けたりするのも子供心ながらに好きでした。また、昨年の6月まで1階部分に食品スーパーの「エコス たいらや」、2階部分に100円ショップの「シルク」が営業されていましたが、昔は1・2階ともに「西友」でよく利用したものです。

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こちらもさきほどの京成百貨店と同じような築年数らしいので、解体されるのも仕方ないと思えるところですが、とくに思い出深い建物が次々と姿を消すのはとても残念で寂しい限りです。


大きな地図で見る
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2009年12月04日

謎の親指





当方が昔通ってた小学校は、本校舎内にあるトイレとは別にトイレ専用の建物があったのですが、その建物の外側の校庭に人間の大人のものと思われる切断された親指が落ちていて大騒ぎになったことがありました。なにしろ校庭に不安定な状態で放置されていたベニヤ板の上にあり、一部生徒が騒いで板の上でピョンピョン飛び跳ねるものだから、それに合わせて親指も板の上をコロコロと踊っている始末だったという(;゚д゚)

やがて教頭先生がやってきてその親指を紙にくるんで職員室へ持って行ってしまいましたが、果たしてあれはホンモノだったのか、ただの作り物だったのか今でも謎のままです。まぁ今になって考えてみれば作り物だった可能性が高いのではないかと思いますが、それにしても切断面とは別の箇所にも傷があったりしてかなりリアルな物体でした(^^;
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2009年05月27日

携帯音楽プレーヤーの記憶





今回は管理人が使用してきた携帯音楽プレーヤーについて振り返ってみたいと思います。

まず、一番最初に外出先で音楽を聴くことを目的とするプレーヤーを購入したのは1980年代初頭にまでさかのぼり、東芝製の「STEREO GO」という録音も可能なカセットプレーヤーでした。ポータブルとはいえ結構大きくて重たかった記憶がありますが、当時の技術で録再が可能なタイプとしてはコンパクトだったと思います。録音できる機種を選んだのは、その頃からいろいろと音楽に関わっていたため、外出先で録音する機会が多かったからです。
その後もカセットを使用した時代が長らく続き、プレーヤーも何台か買い替えて所有しましたが、その中でちょっと変わっていたのは1990年代に入ってから購入したワイヤレスウォークマン「WM-WX808」でした。
http://www.asahi-net.or.jp/~an4t-tkns/taro/walkman/1991.htm
本体とヘッドホンのコードを接続したり、コードが絡まったりといった煩わしさから開放され、とても便利なものでしたが、Hi-BAND方式となり電波障害を受けにくくなったモデルとはいえ、やはりまったく問題がないわけではなく、電波障害によるノイズや音切れなどは避けられなかったものです。

このように長らく使用してきたカセットプレーヤーに見切りをつけ、MDに移行したのは2000年代に入ってすぐのことで、やはり自分で作った音楽などを録音する必要もあったことから、録再可能でかなりコンパクトな「MZ-R90」を購入しました。
http://www.sony.jp/CorporateCruise/Press/199908/99-0824/
カセットとは比較にならないぐらい音質が向上し、なおかつ小さくて軽いことにも驚かされたものですが、とくにソニーのこの機種は録音が可能でありながら再生専用機と同等のサイズを実現した優れものでした。

しかし、PCで手軽に管理できるポータブルミュージックプレーヤーの普及によりMDの時代はあまり長く続かず、5年後となる2005年の春先には早くも使用を終了し移行することにしました。そこで、まず最初に購入したポータブルミュージックプレーヤーは、今はなきNHJのHDD5GBモデル「VHD-5000」となります。
http://av.watch.impress.co.jp/docs/20041208/nhj.htm
音質的にはMDより若干劣るかも知れず、コンパクトさでもHDDタイプのため若干大きくはなったものの、なによりカセットテープやMDディスクといった記録媒体を必要とせずに録音可能なことがとにかく便利で、一度使ったらもうMD等には戻れないといった印象でした。
ただ、そのプレーヤーを2年ほど使用したところ内蔵バッテリーが持たなくなってきたため、「Creative Zen Micro Photo」のHDD8GBモデルに買い替えることに・・・
http://jp.creative.com/products/product.asp?category=213&subcategory=214&product=14107
今度は長く使おうと思い、容量的にかなり余裕があり、バッテリーも自分で交換できることを条件に選んだものの、今年に入って充電ができなくなるトラブルに見舞われ、またしても買い替えを余儀なくされることになりました。その現在使っているプレーヤーについては後日あらためてお話したいと思います。

こうして振り返ってみると、技術の進歩により携帯音楽プレーヤーのスタイルもずいぶん変化したものだとつくづく思います。管理人はひとつのものをできるだけ長く使う性格のはずなんですが、こと音楽プレーヤーやデジカメに関しては新しいものについ目移りしてしまうことや、壊れた場合は修理するより買い替えた方が安く済むケースもあったりすることから、あまり長続きしないというのが正直なところです。。。
posted by SS at 00:00| 千葉 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 過去の記憶 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年01月31日

祖父と京成グループ





当方の祖父はすでに他界していますが、京成グループの永年勤続功労者でした。明治生まれながら早稲田大学に入学して建築や土木を学び、卒業後すぐに京成電鉄に入社し、おもに保線や隧道の工事責任者のほか、ビルなどの設計などにも携わったようです。その祖父が手がけた仕事として当方が聞いているのは以下のとおりです。

:京成日暮里〜上野間の隧道工事

:京成上野駅構内の都道をくぐる通路部分

:旧京成上野本社ビル

:京成押上駅付近の隧道工事。

我が家には京成五十五年史にも掲載されている上野公園内の隧道工事の貴重な写真があったりします。

また、鋸山ロープウェーの建設工事に携わったり、一時期関東鉄道へ転勤になり、茨城県水海道市内に単身赴任していたこともありました。常総線の軌道が今日のようによくなったのは自分の功績だという自慢話をよく聞かされたものです。その後いったん京成に戻りましたが、晩年は新京成電鉄へ転勤となり、本社内事務職(当初は新津田沼駅近く、移転後はくぬぎ山)として数年間勤め、定年後もしばらくは新津田沼駐車場の事務を担当した後、永年に渡る京成グループでの勤続を終えました。

余談ながらその当時は定期的に家族パスが発行され、家族全員が京成全線にフリーで乗車できたほか、乗り入れ先の都営浅草線や京浜急行線の各駅で降りる際にも駅員さんが快く通してくれたのも今となってはいい思い出となっています。

祖父が京成に勤めていた関係もあり、当方が生まれる前の我が家族は高砂車庫内にあった京成の社宅に住んでいたのですが、昭和22年に発生した車庫火災では車両を守るためみんなで協力して押したなどという話も聞いたことがあります。このように祖父は過去の京成についてのいろんな話を聞くことができる貴重な生き証人ともいえる人物だっただけに、亡くなったときはかなりショックでした。

そんな祖父が他界してからまもなく10回目の命日を迎えようとしています。
posted by SS at 23:55| 千葉 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 過去の記憶 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年01月14日

2年連続紀伊半島旅行





高校時代、父が運転するクルマで大阪側から紀伊半島を巡る家族旅行をしたことがありました。
それからおよそ1年後、今度は高校の修学旅行で名古屋側からの紀伊半島巡りとか。。。
とにかくルートが逆なだけで、「ミキモト真珠島」「くじらの博物館」「那智の滝」「千畳敷」などなど、立ち寄る名所がことごとくかぶりまくる始末(-_-;)
家族旅行の際には修学旅行の行先などまったく知らなかったので仕方がないこととはいえ、めったにあるこっちゃない偶然を恨むしかありませんでした。てか、今さらながら高校の修学旅行レベルならば飛行機で北海道とか九州とか、どうせなら本州以外にしてほしかったような気も・・・(^^;
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2006年06月06日

あの事件から24年・・・





千葉市花見川区内を流れる花見川は、正式には印旛放水路であり、人工的に設けられた川となっています。そのうち、とくに横戸町付近は掘削部分の砂が堅く、かなり深く掘り下げなければならないという難工事となり、何度も失敗したうえ、多くの犠牲者が出たということです。
その工事は昭和43年にようやく完成したようですが、昭和57年6月6日にこの場所で今度は「新宿ディスコ殺人事件」が発生し、当時中学3年生の少女が殺害された現場となってしまいました。そういったことから、この横戸町付近は心霊スポットとして、一時いろんな噂がささやかれるようになったと記憶しています。
弁天橋から国道16号線へと続く道路がありますが、当時は川に近いところではS字の急カーブとなっていて幅も狭く、現在のように周辺に住宅もなかったため、いかにも何かが出てきそうな、ちょっと恐怖感のある雰囲気でした。実際、事故も多発していたようで、かなり目立つ「急カーブ注意」のLED表示機が設置されたりして、そこを通るたびに、幽霊が出て事故る人が多いから設置されたなどと、よく友人と話をしたことが思い出されます。
殺人事件のほうは、犯人が捕まらないまますでに時効が成立していますが、その惨たらしいまでの事件内容は、一生忘れることができません。その事件発生から、本日でちょうど24年もの歳月が経過しました。
posted by SS at 22:44| 千葉 ☁| Comment(10) | TrackBack(0) | 過去の記憶 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年03月12日

コークスクリュー





千葉県習志野市にあった谷津遊園・・・懐かしス。思い出いっぱいありまくりっ!!
とまぁ、そんな谷津遊園のいろんな思い出話は後日に回すとして、その遊園地内に「コークスクリュー」という絶叫マシンがあったのをご存知でしょうか?国内初の宙返りコースターとして、かなり話題になったと思います。どれだけ怖いのかという興味から、うちも子どものころに一度だけ挑戦したことがあるのですが、もともと絶叫マシンはわりと平気な人ということもあり、「そんなに怖くないじゃん!」という印象だったと記憶しています。
ところで、このマシンは谷津遊園の閉園後、どうなったのでしょうか。うちはとっくに解体されて、もうこの世には存在しないと思っていました。ところが、ご存知の方もいることでしょうが、北海道留寿都村にある「ルスツリゾート」が買い取り、リゾート内の遊園地で今でも現役で動いているそうです。しかも、事故等はこれまで一度もないとか。幼き日に乗ったあの絶叫マシンが、いまだにこんなところで活躍していることを知って、ちょっと感動的だったというお話でした!
ルスツリゾート公式)(地図表示
ちなみに、関東では「としまえん」にて、谷津遊園にあったものとほぼ同タイプの、1979年に設置された「コークスクリュー」を今でも体験することができます。
としまえん公式>コークスクリュー

商品無料仕入戦隊『電脳卸』
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2006年03月09日

高校卒業式





卒業シーズン真っ盛りですが、毎年この時期になると新聞に必ずと言っていいほど掲載されるのが、自動車免許取り立ての若者による交通死亡事故の記事です。そういった事故の記事を見るたびに、自分が高校を卒業したころのことを思い出さずにはいられません。
日本の高校では在学中の免許取得を禁止しているところが多く、ましてやクルマで通学するなど言語道断で、うちが通っていた高校でも在学中に免許を取ることが禁止されていましたが、うちの場合はとにかく早く免許が欲しくて、高3在学中の秋にはすでに取得して、親のクルマや自分用の原付を乗り回していました。さすがに高校へはクルマなどで行く勇気がなかったものの、卒業式の日だけはクルマで行き、学校からちょっと離れたところにコッソリと駐車して、式に出席したことが思い出されます。
卒業式終了後、かなり浮かれモードだったうちは、友人を4人ほど乗せて各方面へ走り回りましたが、その際、今になって思えば無謀とも言える運転があったことも事実です。このときもし事故っていれば、今のうちはなかったどころか、友人の命さえ奪っていたかもしれません。こういったことは、リアルでは何とも思わなくても、しばらく経ってから思い出すと恐ろしくなってくるものです。
うちの場合はたまたま運がよく事故ることがなかったのは幸いでしたが、まだ若い人たちが自動車事故で尊い命を落としたり、同乗者の命を奪うことがないよう祈るばかりです。

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posted by SS at 23:00| 千葉 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 過去の記憶 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする